代表メッセージ
小さいころからハンバーグが大好きでした。なぜかわかりませんがよくあることです。自分が仕事で作るようになるとは思いませんでしたが何となく自分にとっての理想の味みたいなものが昔からずっと頭の中にあったように思えます。学生の頃のフレンチレストランでのアルバイトから私のキャリアは始まりました。そしてその後20代後半にホテルでの修行を経て独立開業したのでした。最初はまだフレンチレストランぽいスタイルで始めたのですが結局ハンバーグ中心の洋食屋に変化していったのでした。 1996年、今から26年前、築45年の雨が降ると少し雨漏りのする当時でも珍しい戸建ての店舗を借りてkitchenまなべをオープンしたのが独立開業の始まりでした。ハンバーグといえばまなべ、まなべといえばハンバーグと言われるのが目標でした。当時は誰も来ない店の中でひたすらハンバーグのレシピを試行錯誤しながら作ってはやり直しを繰り返していました。オープンしてから1年ほどたったころ試しに高い黒毛和牛でハンバーグを作ってみては?と常識的に考えたらもったいないと思うような事を試してみたところ、想像以上に美味しかったのでした。これでようやく売れる味が完成したと思いひとりで喜んでいたところ、なんと突然、運悪く狂牛病のパニックが日本にもやってきてしまいました。誰も牛肉を食べたがらず1日に一人もお客様が来ない日々が当たり前のように続きました。3か月後のある日、突然電話が使えなくなりました。そして電気代と水道代の督促状が届くようになりました。家賃を払うので必死だったのを覚えています。当時の外食業界は大変でテレビから売り上げ難で自殺をした食肉卸業の社長のニュースが流れてきたのを覚えています。狂牛病パニックは1年近く続いたと記憶しているのですが正直そのころの日々の記憶がほとんどありません。普通はそこで廃業してkitchenまなべもこれで終わりとなるのでしょうが、なぜかどうしてもやめたくなかったのです。せっかく自分が納得できるハンバーグが完成したのに負けたくない、という一心で踏ん張っていました。借金を増やしながら滞っている支払いをコツコツ返し、ようやくパニックも収まりどうにかお客様も戻ってきました。増やした借金を減らすために必死に働きました。10年間正月以外は休まず働き、かろうじて店を潰さずに営業を続けることが出来たのでした。これが独立開業からの11年です。一号店としてはなかなかハードな時期でしたが、ひたすら考え、落ち込む暇もないように意識を集中させて仕事をした事がすべての原点になったと思えます。そしてひたすら働いたその11年後、なんとか自分の店を持てる事が出来たのでした。もちろん繁華街や駅近ではなく、住宅街の目立たない場所での小さい店舗ですが、今でも私の一番のお気に入りの店です。自分の店を持てたことが嬉しくてメニューを決めるのにすごく時間がかかりました。オープンの1日前まで決まらずに悩んでいました。そのころには肩の力も抜け、有名になりたいとか、大繁盛店にして見せる、みたいなことは全く頭にはなく、自分が作りたいもの、そしてそれを食べて喜んでもらえる人のためだけに仕事をしたいと考えるようになりました。世界一おいしいとか、自分が作るハンバーグはだれにも負けないくらい絶対うまい、みたいなことはどうでもいいのです、みんな好みはそれぞれですから。ここまで潰れずに店を続けてこられたことの感謝だけでした。多くの人に気に入ってご来店いただけたから救われたという思いだけでした。他にはメニューを作るときに考えたことは特にありませんでした。今でもそのころのメニューは大事に持っています。そして別府店をオープンしてから7年間、これまでの自分では信じられないくらい順調で幸な日々でした。仕事をやめるまでこの店で過ごすだろうと思っていた矢先に新たな挑戦のチャンスがやってきたのです。それは幹線道路沿いの大型店舗の話でした。話を聞いただけでわくわくしてしまいました。もっと多くの人に知ってもらうチャンスだと思いどうしてもやってみたいという考えが頭から離れなくなっていました。それが今の洋食のまなべ播磨店です。播磨店はチェーン店のような安いファミレスを目指して始めました。なぜなら一番外食で利用されている業態が回転寿司やファミレスだったからでした。自分の心の中にずっとあった、出来るだけ多くの人に利用してもらいたいという思いに完全に一致していたからでした。ここで余談なのですが播磨店の話があった時にふと子供の頃の記憶が現れたのでした。私には4つ上の姉がいるのですが、姉が高校生になって初めてアルバイトをしたところが今はないのですが西明石市のビッグボーイなのでした。どこのご家庭でもある事だと思うのですが、当然私も両親に連れられて姉のアルバイトの様子を見に食べに行ったのでした。当時としては珍しいスープ、サラダバーや鉄板に乗ったハンバーグが嬉しくて姉の仕事ぶりなど記憶の片隅にも残っていません。 播磨店をすると決めたときにビッグボーイ加古川店にアルバイトにいくことも決めました。当時は人手不足ですぐにアルバイトを始めることができました。当然自分の店がありますので店を閉めてから深夜中心に仕事をする事になったのですが、大手企業のオペレーションの管理や備え付けの設備のすごさに圧倒されました。結局播磨店がオープンするまでの1年余りビックボーイの複数店舗にヘルプで行かせてもらう事ができ大変勉強になりました。考えてみると自分のキャリアは大学生の時にアルバイトで行ったフレンチレストランでそのまま見習いになり、そこで紹介されたシティホテルのレストランで仕事をしていたら、紹介でまた別のシティホテルをすすめられ、というひたすら料理を学んだだけの生活で料理以外の経験は皆無で経営ド素人だったのでした。
この話の続きはまだまだあるのですが、とりあえず今はここまで。
人生には困難がつきものだということ。でも、それを乗り越えるために必要なのは、決して大きな成功ではなく、毎日の小さな努力や、ほんの少しの諦めない気持ちです。私の体験が、その教訓を皆さんと共有する一助になればと思います。 |